育児休職中、自分にとって最もストレスなことは「誰とも話せない」ことです。
自分の中で湧いてきたアイデア、日常の発見、普段は見ることの無いワイドショーで取り上げている国際問題(日経新聞が『経済』という視点でバッサリ切り落として記事にしているのに対して、ワイドショーは『国民感情』という視点で、午前、午後を通して延々と報道してくれている)、もちろん育児の悩み、自分の承認欲求を満たしてくれるどうでもいい会話、これらをまったく満たせない苦痛がありました。
しかし、今回はちょっと違っています。
朝9時に長女を保育園に送りに行くときも、もうすぐ5歳の長女とは一通りの会話が成立します。
女子力からくるコミュニケーション能力でしょうか、ちょっとしたかけ引き、相手から特別なおまけを引き出す交渉が行われたりします。
「お、今度はその手で来たか」と楽しく長女の掌の上で踊ってみたり、「その手は読めているぞ!」と、「バレたか・・・」と長女に思わせてみたり。
この辺のやり取りはとても楽しい。
午後2時には長男が帰ってきて、一通りの出来事報告、学校で疑問に思ったことの問答、テレビがついていればその内容についての質問、などなど、こっちから聞いてもいないのに、賑やかにプッシュ型のコミュニケーションが飛んできます。
あぁ、こういうことなのだな。と。
子供が成長すると、自分の話し相手となってくれる仲間が増えます。
子供の知識を鍛えれば鍛えるほど、自分にとって歯ごたえのある相手となっていきます。
子供の得意不得意により、その歯ごたえはスポーツ面であったり、文化芸術面であったり、豆知識の面であったり、様々だと思いますが、私は自分のアンテナでは拾いきれなかった雑学を長男が仕入れてきてくれたりすると、「なるほど~。面白い!」と一緒になって喜んでいます。
面白い相手と話したいと思う欲求は、人間の根底欲求としてあると思います。社会(コミュニティ)に属する欲求であったり、承認欲求であったり、レベルは様々ですが、『昨日までの世界』では、四六時中、ホモサピエンスは話し続けているそうです。
話すことで空腹を忘れ、話すことで不安を紛らわせ、話すことでストレスを発散しているのだそうです。
『話す』『言いたいことを誰かに伝える』ということは、人間の欲求の中のかなり上位に位置するもののようです。
自分の知識が増え、自分の人的価値が高まっているとき、人はその人に魅力を感じ、初対面でも話し相手になってくれます。それも幅広い年代、幅広いジャンルの人たちが。
自分が衰え、自分に聡明さが消え始めた時、今までは普通に得られていた『初対面空間での話し相手』がみるみる減っていきます。
それは、会社(肩書)を離れたからだ、と思う人もいるかもしれませんが、それだけではなく、あなた自身の知性、経験に『初対面空間の他人』が興味を持てなくなったからでもあります。
そういった中で、それでも人は誰かと話がしたい。
自分は老後もどうでもいい話をする相手、何か不安になったことを相談する相手が欲しい。
その時に『お金で解決』するというのも一つ。コンサルタントに金融資産の相談をするでも良いし、カフェのマスターに話し相手になってもらうでも良い。
この前街で見たご高齢の方のように、ドコモショップの相談窓口で延々とおしゃべりをする、という解決策もあるかもしれない。ドコモショップの店員の方はえらいなぁと思ってみていたけど、相談に来た方には「話し相手が欲しい」という強い欲求があるのだろう。
そんな将来を考えると、自分のかき集めた知識をインストールした子供が話し相手になってくれると、どんなに楽しいかと思う。
自分は衰えている。社会ではなかなか自分の興味を満たせる話し相手を見つけられない。
自分の欲求は若いうちのまま高い、自分の価値は衰えにより低い。経験はあるけれども世の中が変わりすぎていて、経験が放つ過去の価値は年々細っていく。
そんな中で、お金を払わずに、自分の知識欲求を満たす話し相手を得るには、自分の子供だな・・・。と。もちろん妻が日々の話し相手になってくれることを期待しているのは言うまでもないけど。
かなり先のことだとは思いますが、子供を良き話し相手として育てていくことの喜びは感じます。
今回の育児休職において、少なくとも子供が3人になったので、やらなければいけないことは増えています。
それでいて、前2回(前回は長男が3歳前半、イヤイヤ期の終わりかけ)にはいなかった日中の話し相手が存在している今回は、結構ストレスが少ない。今のところは・・・。
育児期間中に話せる相手がいることは本当に大切。
以上