春分の日です。
本日は桜満開の六義園に家族みんなでお散歩に行きました。
枝垂れ桜は今まさに満開。
ちいさな楓の花も満開。ヤマブキも満開。
一部のつつじは早くも咲いていましたし、新緑は実に美しく。
最初は嫌がっていた長男も、途中から「なかなかいいね!」と言ってくれました。
長女と次男は「まだ?」っと、横の六義公園へ移動できるのを楽しみにしていましたが…。
さて周辺住民も遠くから来られた方も、同様に楽しんでいる六義園ですが、どこかスマート化されているところと言えば、スマホで入場チケットが買えるようになったところくらい。
たしかに、この頃公園では植えられている植物の種類などを二次元バーコードで紹介してくれるところもあるし、街のデジタルコンテンツは少しずつ増えてきてはいるが、せいぜいそんなもの。
『入場は自由。顔認証で課金は個人口座から自動引き落としです!』
みたいなこともないし、園内を歩いている最中に
『この花の見ごろは○月ごろ。ぜひもう一度ご来援ください。』
みたいなプッシュ型広告もない。
じゃあ、春の六義園は不満か?と問えば、まったくそんなことは無い。
今からすぐには決して作れない、この景観を生み出すためには長い年月を必要とする、六義園はそんなコンテンツで、その年月をトリップして『今』その美しさに出会える。
だからこそ価値がある。
スマートシティとはいうが、ただただ時短や利便性をめざすだけでは限界がある。
中国やシンガポールのように、プライバシー度外視の監視型スマートシティは最も安価で、効率的で、非常に便利になるけれども、たぶん日本社会は望んでいない。
もし心のゆとりを広げる意味でスマートシティの目指すべき姿があるとすればそれは『六義園のような時短』なのではないかと。
つまり、昔から大切に育て守られてきた、庭、建物、コミュニティ、その他長い年月をかけて磨き上げられてきた街の美しさに、現在の社会で出会える。
街の『エイジングの美しさ』を、コンテンツとして広く提供できることなのかな?と。
枝垂れ桜も、今年植えて、来年この美しさに到達できるわけではない。
ただ、これを『メタバースで提供すればいいじゃないか!』と言われてしまうと、それも興醒めか・・・。
あの様々な花が開花した香り。もうすぐ樟脳も濃くなる。地面を踏みしめながら、園内の香りを感じて、景観を眺めて初めて喜びは増すものかもしれない。
スマートシティって、結局のところ効率化以外にどこに効用を見出せるのかなぁ・・・。
以上